87 弥五右ヱ門さんの井戸 弥五右衛門さんの井戸
87 弥五右ヱ門さんの井戸 弥五右衛門さんの井戸
近くの子供たちが三角神社といって親しんでいる清水の庚申神社は、今でこそすっかり整備されて様子が変っていますが、以前は雑木が茂り、中でも目立ったのは土地の人から「お庚申様の大げやき」と呼ばれていた変った木ぶりの一本の欅で、今より広かった境内の半分をおおって立っていました。
大欅は砂川九番から見えるほどで、根元は六人が手を広げて廻すほど太く、途中が大きなうろのようになっていて、いつも落葉が溜っていました。庚申様の屋根伝いに登った子供たちか、この落葉を焚いて餅を焼いたこともありました。
境内はお庚申通りに面し、道が集っているので人の通行も多く、行商人や畑へ行く農家の人たちが夏の炎天下には、この欅の蔭を借りてほっとひと息つく所でした。そこには、何より有難いことに渇いたのどをうるおす井戸がありました。清水の野口弥五右ヱ門さんという人が、明治十三年頃に掘った井戸でした。
弥五右ヱ門さんは江戸末期の文政三年(一八二○年)の生れで、先代の名を継ぎました。先祖は代々恰幅の良いおおようなタイプでしたが、弥五右ヱ門さんは小作りでまめな人柄だったそうです。人のためなら家のことも忘れて努力を惜しまない人でした。晩年の明治二十八年には狭山の学校に、当時としては五円もの寄附をしています。現在市の文化財に指定されている清水囃子の創始者でもありました。
高円寺村で茶屋の料理番をしていた宮大工の半次郎という人がお囃子に堪能だと聞くと早速伴なつて来て自分の家へ食客として置き、村の若い衆を集めて囃子を習わせました。ついには半次郎が鎌田家を継いで此の土地に住みついてしまうほど面倒を見たといいます。それは幕末から明治初年にかけてのことでした。その縁で半次郎が宮大工の腕を振って造ったお宮が、今も弥五右ヱ門さんの子孫である野口家の屋敷神としてまつられています。
そういう弥五右ヱ門さんでしたから、当時南側には人家もなかったお庚神さまの傍に井戸を掘ったのは、所沢から八王子への通運の便を考えての事だったようです。井戸は深さ四十尺(十ニメートル)ほどで、そばの大欅のおかげか水質が良く日照りが続いても涸れることはありませんでした。
井戸を掘り上げるのには、費用の関係もあって三年もかかりました。その時使った車や綱が最近まで某家に残されていたそうです。今は亡き弥五右ヱ門さんの娘さんは井戸が完成した時の様子を語っておりました。
それによると、井戸が出来上った時、弥五右ヱ門さんの家では大樽を抜いて村中の人を招き、賑やかにお祝いをしました。
この晴やかな祝の座の陰では、ふだん地道に暮して来た家内の女衆たちがひそかに心配の涙を拭ったともいいます。
いろいろな思いのこもった井戸だったでしょうが、この附近の人達にとっては恵みの泉でした。近くの空掘川は今と違って、その名のように空掘のことが多く、水の流れが不規則でしたから井戸は大げさでなく生命の源でした。
貯水池が工事のため野口家も近くに移転して来ましたが、他にも家が次々と建つにつれて多勢の人たちが便利に使うことになりました。
この井戸水を産湯にして十人の子を育てた人もありました。近くのあるお婆さんは、野口家の前を通る時、必ず丁寧にお辞儀をして行きます。家人に会うといつも、
「お蔭で毎日暮させて貰っています。ここを通ると、しきりに頭が下がります。」
と言っていました。そして盆と正月には律義に手拭や半紙を持って挨拶に来ました。
戦事中、農事実行組合が発動機を据えつけた精米所を近くに造り、精米、精麦、精粉等を交代で行うようになりました。この時も井戸は活躍しました。
戦後の昭和二十二年頃に、大欅が処分されました。幹は売られ、払った枝は燃料不足をなげく当時の部落の人々に薪として配給されました。欅の代金は、清水神社の大太鼓の購入資金となりました。
水質を良くするという欅を伐った時に、井戸の命脈も尽きたという人もいましたが、皆で守って来ました。しかし周囲に次々と家が建ち、水道が引けるような御時勢にはかないません。とうとう取こわされることになりました。長い間使われて、すっかり輪が磨り減ってしまった鉄製の井戸車はきれいに洗われて野口家に保存されていたのですが、人のために生涯働いた弥五右ヱ門さんへの、孫嫁トメさんの鎮魂の思いを込めて、井戸の底へ沈められました。
今は村のため一世紀近く働いて来た水の墓標となって、人知れず地の底に眼っています。
(p189~192)